ponsta_comのブログ

おもいついたこと

私が私になった日

 トントントンとまな板と包丁がぶつかる、ぶっきらぼうな音が聞こえる。他には蝉と、家の中にある何かのモーター音しかなかった。母がバタン、バタンと冷蔵庫を閉めるたび、叱られているような気がした。母は綺麗な人だった。ノースリーブとショートパンツだけを着た母の髪は、ぺったり顔にひっついていた。


『残ったら捨てといて』


 私が急いで夏休みの宿題をよけると、ドンッと重たいガラスの器が置かれた。服にハネないよう素麺をすすっていると、その間にも母はパッパと動き、気づけば乾いたTシャツとジーパンを身にまとい、髪もさらさらのポニーテールになっていた。
『じゃあ行ってきます』
 麺つゆの中に浮かぶトマトをつついていたら、母はもう靴を履いていて、チラッと目があったが、すぐに出ていってしまった。


 昨日初めて私が盗んだものは、母の口紅だった。

 

---

 

 母の化粧台には、郵便物や髪留めなどがゴチャゴチャに積まれていた。玄関のチェーンは静かにじっとしている。どの山にも触れないようにそっと手を伸ばし、奥で埃をかぶつていたポーチから、溢れている口紅を2本、3本と抜き取った。それらをすぐにポケットに入れ、ユニットバスに急ぎ鍵をかけ、1つずつ暖色の蛍光灯に照らした。


 『ピンポーン。』

 

突然の音に驚いて身体が強張ったが、そのまま動かずに聞き耳を立てた。ピンポーン、ピンポーンと聞こえたが、やがて静かになった。ゆっくりとユニットバスを出て、玄関の方の窓をみたが、人影はなかった。一旦口紅を化粧台の足元に隠し、ドアを開けてみたが、誰もいなかった。鍵をかけると、すぐに口紅達を手にとった。一本ずつ窓からの光に当ててもう一度よく吟味をし、黒地のケースに水色の星のようなラメが輝いている口紅を選び、その他は順番通りに戻した。
 私には、その水色の輝きが、まるで宇宙を見ているような深さをもって見えて、何度も何度も光にかざしては転がし、星を眺めていた。

 一週間経っても母は何も気づいておらず、たまに唇に塗って鏡を見ては、すぐに洗い流した。

 

 小学5年生になったとき、初めて自分でドラッグストアに行くと、同じ口紅が自分のお小遣いにも届かない値段で売っていた。私の宇宙の星達は、突然光を失い、帰りにそのままコンビニのゴミ箱に捨てた。